年譜

佐藤秀三 年譜と代表作品

この年譜と代表作品は、近代建築史の調査資料として、佐藤秀三の生誕から没後の今日までの、出来事や人との縁、作風がよく表された代表作品を、年代順にまとめたものです。今後のさらなる調査により、加筆訂正されることがあります。
なお、ネット上への資料公開にあたり、私人の氏名や建築場所が特定されることの無いよう、一部加工を施してあります。あらかじめご了承ください。
 
:写真:図面
西暦 和暦 年齢 内 容 代表作品
1897 明治30 0歳 2月20日、秋田県由利郡金浦(このうら)町にて、炭焼問屋の番頭の佐藤秀吉・イヨノ夫妻の間に、7人兄弟の長男として生を受ける。
1905 明治38 8歳 父秀吉が独立し、製炭業を稼業として炭にする雑木林を求めて、秋田から北海道に移住。以後、東北の各地を廻る転居生活で、山深い村落で幼少時代を過ごす。
1908 明治41 11歳 仙台から山形県米沢市に移住。
1910 明治43 13歳 山形県工業学校(現・山形県立米沢工業高等学校)の建築科に進学し、建築の基礎を学ぶ(同級生に、のちにアメリカに渡って建築家として活躍する松ノ井覚治氏がいた)。
1914 大正3 17歳 3月、山形県工業学校を卒業。
4月、設計者を志し、大阪の住友総本店 営繕課に入社。長谷部鋭吉氏(のちの日建設計創設者の一人)と出会う。この師との出会いが、一生の方向性を確定する。
「住友銀行東京支店」(のちの住友銀行日本橋支店。現存せず)の工事現場に配属となり、タイルの規格検査を任される。この現場で同僚となった早大卒の笹川慎一氏のデザインセンスに、多大な影響を受ける。
1920 大正10 24歳 2月28日、勤務先の住友総本店 営繕課が、住友合資会社 工作部に組織名変更。
1921 大正11 25歳 6月、住友合資会社 工作部を退職。
名古屋の請負会社に入社・退職。
1922 大正12 26歳 中村田辺建築事務所に入所。
1925 大正14 28歳 渋沢栄一氏の傘寿と子爵昇爵を祝って計画された「青淵文庫」(のちに国指定重要文化財)の製図係を担当し、この年に竣工。
1926 大正15 29歳 7月、田辺淳吉氏の死去により中村田辺建築事務所閉鎖のため、退職。
白鳳社建築工務所に設計部長格で入所。
1927 昭和2 30歳 (麻布桜田町)山田邸
1928 昭和3 31歳 2月、前年に竣工した「(麻布桜田町)山田邸」が、建築資料研究會より「最新建築設計叢書 第一期第廿四輯 山田邸」として刊行される。
白鳳社建築工務所を退職。
1929 昭和4 32歳 1月20日、佐藤秀三建築工務所(現・株式会社佐藤秀)を東京府岩渕町(現・東京都北区赤羽)に創業。
1932 昭和7 35歳 8月、独立後初めての設計作品となる「近藤邸」竣工。 近藤邸
1933 昭和8 36歳 広島県にて、帝人創業者の秦逸三氏の住宅などを数件設計施工。昭和10年頃まで、広島と東京を行き来する。
この時代の代表作品設計は、急勾配屋根の民家風建物の外壁に洋風のハーフティンバーを用いる。
秦邸
亘理邸(現:林邸)
1934 昭和9 37歳 稲生邸
1935 昭和10 38歳 5月13日、四谷区南伊賀町(現・新宿区若葉町)に事務所を移転。
「山下興家邸」(人事院人事官)を契機に、鉄道関連の施主の「村上義一邸」を手掛け、その後、堤康次郎氏(国土計画)等に顧客層としての縁が拡がる。山下氏義弟は佐藤秀三建築工務所に入社(のちに役員)、村上氏は秀三の長男 昌の仲人。
眞田邸
村上邸
1936 昭和11 39歳 四谷区箪笥町(現・新宿区三栄町)に事務所を移転。 山田邸
1937 昭和12 40歳 4月、初めての大型病院の設計となる「宇都野病院」竣工。
7月、住友御本家よりのご用命の「住友那須別邸」竣工。栗材を使った骨太の架構は秀三建築の代表作となる。
12月10日、有限会社佐藤秀工務店に改組。
宇都野病院
鎌倉Y家別邸
勝俣邸
住友那須別邸
京都鹿ヶ谷住友社宅
1938 昭和13 41歳 10月、住友総支配人で山岳人の伊庭勝弥氏よりご用命の、初の山小屋建築「志賀アルペンローゼ」竣工(のちに長野県山ノ内町指定有形文化財)。この頃から、スキーや登山を趣味とするようになる。 山家邸
渋沢信雄邸
志賀アルペンローゼ
1939 昭和14 42歳 11月、住友家ご当主のY字型平面計画の木造洋風住宅である「住友俣野別邸」竣工(のちに国指定重要文化財)。その後も、ご当主とは親密な交友関係が続く。また、ご当主はアララギ派歌人で、その交友関係の建物も手掛けるようになる。 住友俣野別邸
1940 昭和15 43歳 住友発哺山寮
1941 昭和16 44歳 9月2日、秀三の母校・山形県工業学校の教師である鈴木富治氏の支援を受け、茨城県那珂郡勝田町(現・茨城県ひたちなか市)に出張所を開設。日立製作所関連ほか、県内施設の多数の設計を手掛ける。
1942 昭和17 45歳 10月、初の大型木造建築「勝田宝塚劇場」竣工。 住友黒菱山寮
勝田宝塚劇場
1943 昭和18 46歳 8月、住友総理事の小倉氏の住宅が竣工。住友との関係が更に強固になる。 小倉邸
1944 昭和19 47歳 茨城県西茨城郡七会村鷹峯鉱山に疎開。
1945 昭和20 48歳 終戦後の10月、杉並区西田(現・杉並区荻窪2丁目)に事務所を移転。
1947 昭和22 50歳 3月9日、中野区囲町(現・中野区中野4丁目)に事務所を移転。
1948 昭和23 51歳 5月6日、株式会社佐藤秀工務店に改組し、社長に就任。
6月30日、戦後最大規模の設計コンペといわれる「平和記念広島カトリック聖堂」建築競技設計で準佳作入選。
1949 昭和24 52歳 川嶋友愛館
1951 昭和26 54歳 「大阪住友海上荻窪社宅」を受注。花崎利義社長からは、全国に大阪住友海上(現・三井住友海上)の社宅や営業所などの受注支援をいただき、画家仲間等にて公私共々絶大な支援を受ける。 大阪住友海上荻窪社宅
1952 昭和27 55歳 「天狗の湯ホテル」の設計を契機に、地元和合会有力者との交流が深まり、志賀高原の発展と共に数多くの建物を手掛けることになる。 S社等々力クラブハウス
天狗の湯ホテル
1953 昭和28 56歳 志賀高原の会社保養所を次々と受注し、耳付杉板荒木ペンキの外壁の山小屋スタイルが確立していく。
6月、青山霊園にて、アララギ派の歌人で精神科医の斎藤茂吉氏の墓所を設計。
9月、初の寺院建築「泰宗寺本堂」を手がける。
11月、主婦の友住宅新書「住みよい住宅集」に設計作品が紹介され、その後建築雑誌にしばしば作品が紹介されるようになる。
戸谷邸
斎藤茂吉墓所
T社志賀山荘
1954 昭和29 57歳 丸井中野店の改修工事で青井忠治社長の信頼を得、その後多くの店舗と住宅を受注、さらに青井家墓所の設計を依頼される。
1956 昭和31 59歳 太田邸
1957 昭和32 60歳 4月3日、事務所を新宿区三光町(現・新宿五丁目北交差点付近)に移転。
秀三は、堤康次郎氏より人望と設計の質の高さに信頼を得て、初の大型ホテル建築「湯の花ホテル 本館」の基本デザインと施工を手がける。その後も、堤氏のご子息 義明氏に引き継がれ、プリンスホテル系のクラブハウスや大型木造ホテルの設計を手掛けていく。
1958 昭和33 61歳 新潟県赤倉地区の開発に伴い、会社保養所を次々と受注する。 N社赤倉山荘
1959 昭和34 62歳 大屋根、木部ステイン色、漆喰引き摺り仕上、飾り金物等、のちに佐藤調と言われる設計を確立していく。 中村研一邸主屋
田中邸
N邸
1960 昭和35 63歳 7月、古材を使った秀三風の茶室「中村研一邸茶室」竣工(のちに主屋と共に国登録有形文化財)。 S家軽井沢別邸
中村研一邸茶室
1961 昭和36 64歳 9月、世田谷の小京都と呼ばれる烏山寺町通りに、棟高の低い木造建築「幸龍寺本堂」竣工。 幸龍寺本堂
1962 昭和37 65歳 8月、「向井潤吉邸」竣工。施主の向井画伯とは、一緒に民家等の絵を描きに出掛けるなど、公私共々の友人付き合いを続けた。 向井潤吉邸
鬼押出し園食堂
1963 昭和38 66歳 8月、建築史家村松貞次郎氏から、”好敵手物語「佐藤秀工務店と水沢工務店」”として雑誌に紹介され、絵を描き登山やスキーを趣味とする秀三はスマートな文化人と評された。
1964 昭和39 67歳 4月6日、事務所を新宿区番衆町(現・新宿区新宿5丁目)に移転。
1965 昭和40 68歳 T邸
1970 昭和45 73歳 3月、「三木武夫邸」竣工。のちに内閣総理大臣になられる三木武夫氏の私邸で、政治家の住宅として機能性が高く、かつ格調のある建物である。 三木武夫邸
1971 昭和46 74歳 5月29日、株式会社佐藤秀工務店の社長を退任し、会長に就任。
10月、「中島邸」竣工。均整のとれた大屋根の佐藤調の完成形に近づいた感のある建築。
中島邸
1975 昭和50 78歳 6月、「嬬恋高原ゴルフ場クラブハウス」竣工。水を張った中庭や、ステインの丸柱により軒を深く張り出したポーチ等が、効果的な設計の木造大架構のクラブハウス(のちに「嬬恋プリンスホテル」の本館となる)。 嬬恋高原ゴルフ場クラブハウス(現:嬬恋プリンスホテル)
1976 昭和51 79歳 5月、株式会社佐藤秀工務店の会長を退任し、相談役に就任。
3月、「日光プリンスホテル」竣工。ホテルのラウンジや食堂等に、スケールの大きい木造丸太組み大架構の大屋根構造がダイナミックな設計である。玄関ホール正面には自身が描いた大画面の石張りの風景画が圧巻。木材の選定や皮むき等自ずから取組んだ秀三晩年の力作である。
日光プリンスホテル
1977 昭和52 80歳 十和田プリンスホテル
1978 昭和53 81歳 9月8日12時55分、東京都清瀬市の織本病院にて永眠。
9月14日、新宿の太宗寺で社葬。
1979 昭和54 没後 6月、晩年の作品「日光プリンスホテル」が、社団法人建築業協会主催の第20回 BCS賞を受賞。
1980 昭和55 没後 9月8日、初の建築作品集「佐藤秀三」を刊行。
1985 昭和60 没後 8月、1938年竣工の「渋沢信雄邸」を、志賀高原に移築・再建し、「志賀山文庫」となる。
1994 平成6 没後 建築雑誌「新建築住宅特集」5月号に、建築史家の長谷川堯氏による「建築家佐藤秀三」の論考が、特集記事として掲載される(のちに単行本「建築の出自」として刊行)。
2000 平成12 没後 12月22日、インターネット上に「建築家 佐藤秀三の世界」のコンテンツを公開。
2003 平成15 没後 5月6日、1939年竣工の「志賀アルペンローゼ」が、長野県の山ノ内町指定有形文化財に指定。
2004 平成16 没後 7月6日、1939年竣工の「旧住友家俣野別邸」が、国指定重要文化財に指定。
2009 平成21 没後 3月15日未明、保存と一般公開にむけて修復工事が進められていた「旧住友家俣野別邸」が焼失。
2013 平成25 没後 1933年竣工の「亘理邸(現・林邸)」が、杉並区主催の第11回 杉並「まち」デザイン賞を受賞。
2016 平成28 没後 3月15日、横浜市の俣野別邸庭園内に、2009年に焼失した「俣野別邸」が残された設計図面等を元に再建。 俣野別邸[再建]
2017 平成29 没後 2月10日、前年に再建された「俣野別邸」が横浜市認定歴史的建造物に指定。
4月1日、「俣野別邸」が公園内の施設として一般公開。
2019 平成31 没後 3月29日、1959年竣工の「旧中村研一邸主屋」および1960年竣工の「旧中村研一邸茶室(花侵庵)」が、国登録有形文化財に登録。

調査・作成協力 / 佐藤秀三研究会(2019年6月時点の調査資料に基づく) 禁・無断転載

 

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