エピソード

エピソード2
納得がいくまで壊してやり直す

独立後間もない1933年(昭和8年)に手掛けた初期の住宅建築「亘理邸」(現・林邸)
独立後間もない1933年(昭和8年)に手掛けた初期の住宅建築「亘理邸」(現・林邸)

 佐藤秀三は、「住友合資会社工作部」(入社時の住友総本店営繕課が大正10年に改組)を退職した後、いくつかの設計会社や施工会社を転々としています。この時代の経験が、秀三に「自分の設計を誠実に実現するためには、どうしても自分で施工をしなければ安心出来ない」との結論に至らせたようです。
 ある施工会社に勤めていた時、「1本の杭を2本にして打て(松杭の長さを半分に切って2本に見えるようにごまかせという意味)」という手抜き工事の命令を受けて、憤然として辞職したというエピソードがあります。
 また、設計事務所と施工会社の意思の疎通がうまくいかなかったり、施工会社が設計者の目をぬすんで仕事や材料をごまかしているような状態を目にし、これでは建主のために良い建物は出来ようはずがないと嘆いたこともあったようです。
 かくして1929年(昭和4年)、秀三は、東京府岩渕町(現・北区赤羽)に 「佐藤秀三建築工務所」(現・株式会社佐藤秀)を独立創業します。創業後、秀三はこれまで経験した建築に対する矛盾を解決すべく、設計・施工を一貫して担当。設計事務所と施工会社のそれぞれが受け持つ領域の壁を取り払い、徹底してお客様のために良い建物を造ることに打ち込みます。

過去に設計した顧客の紹介で受注が繋がっていく
過去に設計した顧客の紹介で受注が繋がっていく
最初の数年は自転車で現場をかけずり回った
最初の数年は自転車で現場をかけずり回った

 そのためには、施工済みの部分であっても、気に入らなければ壊してやり直すこともしばしば。設計の意図と表現が食い違っている時は容赦しませんでした。やり直しの指示に従わない職人には「言い訳など聞きたくない。道具を持って帰りなさい!」ということもありました。
 秀三のもとで働いた元社員はこう振り返ります。「あの人はものすごく怖いけれども、きちんとやっていれば必ずほめてくれる。しかし、ちょっとでもごまかし仕事をしたら、その場で縁を切られてしまう。現場で赤字を出して 怒られたことは一度もないが、仕事ではしょっちゅう怒られました」。
  こうした、設計にも、施工にも、決して妥協のない秀三の姿勢は、次第に世評を高め、お客様がお客様をご紹介くださるという好循環が生まれていきました。

青年期の秀三。仕事へのこだわりは並々ならぬものだった
独立後の秀三。
仕事へのこだわりは並々ならぬものだった
秀三(右から2人目)と戦前の社員たち
秀三(右から2人目)と戦前の社員たち
   
 
 

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