エピソード

エピソード5
木材への強いこだわり

「住友那須別邸」ダイニングよりリビングを見る
「住友那須別邸」ダイニングよりリビングを見る

 佐藤秀三は、1935年(昭和10年)、「住友那須別邸」の設計を終え、大工の棟梁ほか7、8人の職人とともに栃木県那須町の現地に詰めかけて工事をはじめました。予算は坪三百円(当時他の住宅は坪百二十~百八十円程度)と決めて着工したのです。
 ところが、木材の刻み(加工)の途中で、秀三のもとに「福島に良い栗丸太がある」との情報が入り、さっそく山に入ってみると、あまりにも立派な丸太に一目ぼれし、前後を忘れて一山まるごと買取ってしまいました。そして、用意していたすべての材料を取り替えてしまったのです。この栗材は、後の洋館建築、「渋沢信雄邸」にも使われました。
 もともと金銭勘定にはあまりこだわらなかった秀三ですが、このような思い切った変更ですっかりお金を使い果たしてしまい、旅館に宿賃が払えず東京に帰るに帰れなくなったといいます。幸い、この建物を気に入られた第16代住友吉左衛門氏から、特別ボーナスとして三千円(当時の大卒初任給は七十五円程度)を頂き、それで借金を払って、やっと東京に帰ることが出来たといいます。
 商売気を忘れて建物造りに打ち込む秀三の、木や建築への愛情の深さが端的に示されたエピソードですが、これは、秀三の生い立ちにも由来しているようです。
 秀三の父・秀吉は、製炭業を生業としており、少年時代の秀三は、一家で東北や北海道を転々としました。その間、父親の仕事柄、山林やそこに生えている樹木を自分の目で見、その性質を確かめることを自然に体で覚えたようです。また秀三は、進学した山形県工業学校建築科(現・山形県立米沢工業高等学校)の卒業の際に、祝として父親から大工道具一式を贈られています。木造建築の設計のみならず、施工まで一貫して手掛けた彼の出発点は、ここにあったのかもしれません。

「日光プリンスホテル」の木造大架構空間
「日光プリンスホテル」木造大架構空間
「日光プリンスホテル」のロビー
「日光プリンスホテル」ロビー

 秀三は、晩年に手掛けた大架構丸太をテーマとした木造建築技術の集大成ともいえる「日光プリンスホテル」1976年(昭和51年)[社団法人建築業協会主催第20回BCS賞受賞作品]の建築の際にも、高齢にも関わらず、自ら山へ出向いて立木を指定し、自ら樹皮をはぎ、手斧ではつり、ひとつひとつの部材を使う場所まで指定しました。生涯、木を愛し、建築に情熱を傾け続けていたのです。

自ら使用材に手を入れる秀三(右)
自ら使用材に手を入れる秀三(右)
最晩年に木工所にてペンキの色決めをする秀三
最晩年に木工所にてペンキの色決めをする秀三
   
 
 

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