最初の現場「住友銀行東京支店」上棟式(大正3年10月17日)の記念写真。中列左端が秀三
1914年(大正3年)、佐藤秀三は、山形県工業学校(現・山形県立米沢工業高等学校)の建築科を卒業後、設計者を志して大阪の「住友総本店営繕課」に入社しました。
当時、同営繕課は、野口孫市氏をはじめ、日高胖(ゆたか)氏、長谷部鋭吉氏らを擁する一級の建築デザイナー集団で、各地にある住友銀行の支店を本格的洋風建築として一新すると共に、大阪に本店社屋(後の「住友ビルディング」)を建築するという使命を担って、設計・技術両面にわたる組織作りのために盛んに人材を登用していました。
この時期、同課の上司であった長谷部鋭吉氏との出会いは、秀三の建築家として、また人間としての成長に大きな影響を与えました。長谷部氏は、優れた設計者であると同時に、その高潔な人柄で知られた関西建築界の伝説的存在であり、後に長谷部・竹越建築事務所を結成して今日の「日建設計」の礎を築いたことでも知られています。
長谷部氏と秀三との出会いは入社時の製図試験の時で、消しゴムを忘れた秀三が、書き損じた線を丁寧に指でこすって消す姿が、試験官であった長谷部氏の目にとまったことに始まるといいます。
17才の佐藤秀三
秀三が入社後最初に経験したのは、既に1912年(大正元年)から着工されていた「住友銀行東京支店」(のちの日本橋支店。現存せず)の建築でした。これは日高胖氏が技師長として手掛け、数年後に襲った関東大震災にも無傷で残った建物です。若干17才、見習であった秀三は、毎日朝から晩まで何千枚というタイルの反りと色をチェックする仕事を任され、「つくづく何のために学校へ行ったのか情けなくなったものだ」と述懐しています。
この秀三の苛立ちを見て取った長谷部氏は、「佐藤君は感情に激しいところがある。気の短い人は絵の勉強が一番いい。必ずプラスになるからやってごらん」と絵の道具一式をもらい受けたとのことです。その後、絵は秀三の生涯の趣味となりますが、この出来事が建築家として、さらには人間としての成長に計り知れない影響を与えたことは明らかです。
また、秀三は、住友を退職した後も、長谷部氏のプランやディテールを直に伝授頂く機会にも恵まれ、氏が得意とした田園型住宅などの実際的技法やデザインを会得していきました。
のちに「佐藤式」「佐藤秀調」と称される、洋風数寄屋の独自のスタイルにたどり着く下地は、長谷部氏との師弟関係の中から醸成されたことに間違いありません。
絵画を生涯の趣味とした秀三
長谷部鋭吉氏(左)と秀三(右)